芸術と文化の大使
インドの文化はなべて世界の旅行者たちにとってどこの文化にもまして目に留まる文化を持つ国の一つです。著者であり慈善事業にも携わっているスダ ムーティは国境を越えての絆を結ぶ努力を促進しているインドの数多い、世界に顕著な貢献についての彼女の見解を広く分かちあおうとしています。
旅行者たちが目的地に到着するまでにその目的地について一応の調べを終えることは普通のことです。こうして事前に調べておけばその旅行の計画の効率化に役立つうえに、用意があれば現地を見て回って、到着した新たな場所をより身に即して深く理解することができたという体験を築くことができます。私の場合にはその地の歴史的意義に応じてそこを訪れるか否かの決断をする場合が屡々です。たとえて言えば、カンナダ言語が元来は8世紀と9世紀に流通していた言語だったということで興味を持ち、数年前からやりはじめたこの言語を学習するという趣味的学問志向もその趣味があったからこそインド南部地域を広範囲に旅してまわろうという気持ちになったのです。同じように、私に海外を訪れる機会が生じるごとにどのようなわけでその場所が訪問するだけの理由を持つ場所なのかを理解し、研究することを欠かしません。この自己研磨法に基づいてインドの人々の間ではあまり知られていない場所をも何とか繰り合わせて訪れるようにしてきました。私の追求する研究、その結果としてその研究から受け取ることのできる喜び、それに私が努力と引き換えに手に入れることのできた情報は、判って頂ける通り、人々と人々の織りなす人的枠組みそのもので、この貴重な枠組みがお互いの国々をより緊密に結びつけることに繋がるのです。
一つ最近の旅行での例を挙げますと、私はイエス キリストの十字架の足跡を追う旅をイスラエルに向けて行いました。私のこの旅の目的はこのイスラエルという国の持つ自然の美の探検という意味は勿論ありましたが、それに加えてキリストご自身がこの地を旅されたときに起きた出来事について勉強し、知識を増やしたいと考えたからです。私は3ケ月間の聖書研究会に登録しそこで勉強して少なくともこの私の旅の目的地の歴史と文化だけでも頭に入れてこの旅をしたいと考えたのでした。

インドという国の持つ神話、宗教思想、それにその哲学は国際的に国境を越えた共鳴を得ているかたわら、私に心地よい驚きを与えたことは世界に於ける現代インド文化の認識が世界の片隅にまでも、そしてその世界の全ての年齢層を通じていきわたっていることでした。欧州におけるインドの古典音楽と古典舞踊を教える学校;アメリカ人で溢れるニューヨークにあるジムで練習されるバングラ音楽のビート;東京からトロントまでに広がって行われているヨガ、ロンドンのインドレストラント、そして世界に広がるヒンデュー映画!私が旅したところの全ての場所で私の国の遺産と私のインド人らしさが私の文化的パスポートとして通用したのです。
私がインド出身であることを受け入れてくれた私の旅先での人々は私の精神を高揚させてくれました。イランの美しい古代のモスクを観たり、カンボジアのヒンデューの神々を祀る絶妙な美しさの寺院に出会えば皆さんはその素晴らしさがどの他国の文化財にも引けを取らないものであることがお分かりになります- 事実、それらの他国における我が国の建築物は自国のものよりももっと美しいといえるほどです。でも、この驚くべき事実は自国の民を卑下させるものではさらになく、ここにまた別の可能性があるということの実証として自国の民の目を開かせる役にたつものです。サリーという単純な服装、又はカディ クルタとも呼ばれる服装はあなたと初対面のお相手でも寛がせることができ、謙虚という言葉の意味を大いに物語ることができる服装なのです。

この意味に関してはボリウッドはインドの文化のもつ心地よい表現のあやを地球の果てまで届ける主演格の役割を果たしてきました。イランを旅していた時に体験したことは出来立てのナン(厚手のふわふわの平パンでピタに似たパン)を売る店の主に近付いたときでした。その店主が私に注文したパンを手渡したとき、彼は私のサリーを見て“アミダブ バチチャン?”と尋ねました。私の返事がピンとこなかったようで、彼は又言いました、“サルマン カン? シャ ルク カン?”これらの有名なヒンディーの映画俳優たちの名前を聞いて、私はやっと彼が何を尋ねようとしているのかが理解できたのでこう答えました、“そうよ、私は彼らと同じ国から来たのよ。”すると彼は微笑んで“おかねいらないよ。”と言ったのです。 取ってもらわなきゃ困ると私は言い張りましたが彼は断る一方でした。めちゃくちゃな英語で彼はこう説明しました、“インド、ボリウッド。トテモステキ。オドリジョウズ。キモノキレイ。イイオンガク。イランオンガクニニテル!”私は思わず微笑むほかありませんでした。
その後私はウズベキスタンの都市であるブクハラへと旅を続けました。夕刻散歩に出るとききなれたボリウッドの歌の調べが私を追いかけてきました。数分も経たないうちに私は湖の側のとあるレストランの前についていました – リャビ ハウスとありました。“インドから来ましたのよ。その歌はインドの歌ですよね”、私がそういうや否やその歌手は歌うのをやめました。“ヒンドウースタン(インド人)ですか?”と彼が尋ねたので私はうなずきました。”ナマステ!”と彼はにこやかに私に挨拶し、あたかもこの私との間に新しく見つけた絆を確認するように頭を激しく振りました。
だけれども、それからはボリウッドがインドの一番他国に浸透した文化大使の役割を果たしていると考えられることが分かりました。スイスのインターレーケンには亡くなった有名なインドの映画製作者のヤシュ チョプラの像が建てられていて、俳優のシャー ルーク カーンとカジョルのポスターがウルナー アルプス山脈の山の一つのティトリス山の登山口に掲げられています。これらの思い出の記念のしるしは有名な映画だからということだけでなくて、それよりむしろインド全体としての文化 – インド映画の背後にある思想、インドという国とそこに住む国民の日常の物語からなるお話 – の人気を表しているものなのです。インド文化の痕跡は世界中に見ることができる一面、私は毎回の旅のごとに我々も又インドの大使になり、インドの慣習、哲学、そしてその魂を世界に広げていると信じます。